グイノ・ジェラール神父の説教



B年

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王であるキリスト



            年間第23主日  B  201899日   グイノ・ジェラール神父

                   イザヤ 35,4-7   ヤコブ 2,1-5   マルコ 7,31-37

  昔から、神はこの世の弱い人や貧しい人を選びました。 それは彼らの存在が私たちを豊かにするためです。 神ご自身が「豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられました。 それは、主の貧しさによって、私たちが豊かになるためでした」(参照:2コリント8,9)。 そういう訳で、私たちが利己主義を捨て、近くで出会う貧しい人や弱い人に対して心配りができる人になるように聖ヤコブは強く願っています。

  耳が聞こえず舌の回らない人を癒すために、イエスは群集の中から彼を連れ出し、守り、非常に思いやりのある態度を示しました。 このようにしてイエスは、神の目には体の不自由な人の存在がどれほど尊い存在であるか、そして神によって特別に愛されていることをその人に理解させようとします。 はっきり話す恵みを与えることによって、イエスは舌の回らない人に他の人々に自分の心の豊かさと喜びを分かち合う恵みも与えました。 また、その人の耳を開くことによって、イエスは、彼に人々が伝えたいことを知ることや人々の意見を注意深く聞き分ける恵みも与えました。 耳が聞こえず舌の回らない人の癒しは、周りにいる群衆をも豊かにし、皆が口を開いて賛美と感謝をささげるようになりました。 結局この奇跡は皆の前で 喜び、感謝、分かち合い、お互いの出会いと発見への道を開きました。

  この奇跡が行われた国では、人々はギリシャ語を話しています。 イエスはギリシャ語を話せません。 彼はアラム語しか話しません。 ですから、群衆と耳が聞こえず舌の回らない人とイエスは言葉が違うので話し合うことは到底無理でした。 そういう理由で、群集は奇跡の秘密を広げないようにと願うイエスの言葉を理解できませんでした。 しかし、話す言葉の違いにも拘らず、賛美と感謝のうちに皆が一致することができました。 神のみ言葉であるイエスは全ての人の目、口、耳、手と心を開くために遣わされました。 「エッファタ、開け」と、イエスは私たち一人ひとりに言っています。

  現代の人々にとって、目と目を合わせて他の人と対話したり、注意深く聞いたりすることが難しくなりました。 また話す人の使う言葉はそれを聞く人にとって同じことを意味をしていません。 質問をする大勢の人の目的は、正しい答えを受けるためではなく、むしろ自分が言いたいことや聞かせたいことを人に納得させるためです。

  神は弱さの中に力を、貧しさの中に豊かさを現しています。 それを信じるなら無頓着で悪い傾きや失敗のある私たちの全生涯を神の手に委ねればよいと思います。 そして「エッファタ、開け」と私たちに命令するイエスの声に耳を傾けましょう。 恐れずに、癒しと命を豊かに与えるイエスの言葉に耳を開きましょう。

   聖霊が私たちのこの心を満たすように、そして心の奥底に神への賛美が湧き出すように 心を大きく開きましょう。 イエスは、話し合うことや聞き合うことや一致すること、そして一緒に賛美することを豊かに、惜しみなく私たちに与えました。 ですから、人に対して救いの手、慰め、指導と案内、施しなどを豊かに分かち合いましょう。 今日、主イエスのそばに集まっている私たちが一つの声になって、私たちの信仰と希望を一緒に宣言しましょう。 アーメン。



             年間第24主日 B年  2018916日   グイノ・ジェラール神父

                     イザヤ50,5-9  ヤコブ 2,14-18  マルコ 8,27-35

   預言者イザヤは「人の耳を開く」神と出会うように私たちを誘っています。 既に先週イエスは耳が聞こえず舌の回らない人を癒しました。 神の言葉はもとより、信じる人の証しや、また自分の心の奥底に語る神の声、それらを注意深く聞くように、聖書全体はその大切さをよく教えています。

  なぜなら、神の声を聞くことが信仰の道を開くからです。 「耳のある人は聞きなさい」(参照:マタイ11,15)とイエスは忠告します。 黙示録の中で聖ヨハネは、次のイエスの誘いを七回繰り返しました。 「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」(参照:黙示録3, 63, 22)と。 確かに、信仰はみ言葉を聞くことと結ばれています。

  旧約聖書を通して神は絶えず同じ願いをイスラエルの民に聞かせます。 「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしのたからとなる」(参照:出エジプト19, 5)と。 また「今わたしが教える掟と法を忠実に行ないなさい。 そうすればあなたたちは命を得る」(参照:申命記 4, 1)、「イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行ないなさい。 そうすれば、あなたは幸いを得、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」(参照:申命記 6, 3)などです。 神の声を聞くことが信仰の道を開くと同時に終わりのない命と幸せの道も開くのです。

  このように、神が同じ願いを繰り返すのは、ご自分との一致と愛の繋がりを保つために聞くことはとても大切なことだと神が知っているからです。 私たちにご自分の命、栄光、永遠を与えるために、神は私たちと親しい関係を結びたいのです。 父なる神と私たちを一致させるイエスは、それを繰り返し何度も教えています。 「はっきり言っておく。 わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得る」(参照:ヨハネ 5, 24)と。 ですから、神の言葉を注意深く聞くことによって永遠の命に与かることをよく理解しましょう。

  私たちはやかましい世界に生きています。 真面目に言われたことを理解し行なうために、私たちにとって静かな雰囲気や落ち着く時間を見つけることが必要です。 先ず、自分自身のことを聞きましょう。 つまり自分の体、心臓の動き、気持ちと感情、自分の呼吸に耳を傾けましょう。 そして大自然のリズムと風の音、木の枝と葉っぱの音、水の流れる音、小鳥のさえずる声にも耳を傾けましょう。 最後に、私たちは神が言われることをすぐ忘れる傾きがあるので、神のみ言葉にいつも新たにされ、その言葉を初めて聞くかのように注意深く耳を傾けましょう。 なぜなら神は「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と私たち一人ひとりに尋ねるからです。 この質問に答えるには沈黙と神の言葉に耳を傾けることが肝心です。

  預言者イザヤが教えている通り、聞くことによって人は神の真の顔を発見することができます。 神はいつもそばにいて、私たちを守ります。 神は善と命の側に立っています。 神は私たちを個人的にご存知ですから、他の人と間違えることができません。 今日の詩篇はそれを思い起こさせました。 神は苦しんで、助けを願う人の叫びを聞き分けます。 命の主である神は、死から私たちを救います。

  ですから、今日の詩篇を借りて神に向かって私たちの信仰と希望を叫びましょう。 「神はわたしを死から救い、足がつまずかないように支えられた。 わたしは神の前を歩む、神に生きる人々の中で」と。 アーメン。



          年間25主日  B年  2018923日   グイノ・ジェラール神父

                知恵2,1217-20   ヤコブ 3,16-4,3  マルコ 9,30-37

   イエスが最初に自分は近いうちに引き渡され、苦しめられ、殺されることを弟子たちに打ち明けた時に、彼らは、特にペトロは「とんでもないことです。 そんなことがあってはなりません」(マタイ16,22)と反発して叫びました。 数日後、イエスが再び近い内に実現する自分の死を告げた時、弟子たちは平然とした態度を見せました。 彼らはイエスの死について何も理解せずに、それについてイエスに尋ねることを恐れています。 なぜなら、弟子たちは、直ぐに行われるイエスのエルサレムの入城は自分たちに勝利の道を開くと固く信じていたからです。 そういう訳で弟子たちは自分たちの未来の計画について口々に語ります。 ペトロは「私は天の国の鍵をいただきました。 イエスは私の上に自分の教会を建てるつもりだから、一番偉大なのは私だ」と言ったのではないでしょうか。 それに対して、若いヨハネは「とんでもない、イエスが一番大好きなのは私です」と答えたかも知れません。 きっと他の弟子たちも自分が一番の立場を受ける理由を次々と説明したでしょう。

   そこでイエスは大切なこととは、よい立場を受けることではなく、救いの使命を果たすために神から選ばれたことだと弟子たちに納得させます。 弟子たちの間に置かれた子どもは、選ばれるために何もしませんでしたし、またどうして他の子どもでなく自分が選ばれたか分かりません。  それはイエスご自身の選びでした。 同じように弟子たちもイエスに選ばれました。

  未来の象徴である子どもは成長していつか大人になります。 弟子たちは病気の人を癒し、悪霊を追い出すことによってイエスと共に受けた高い評判と光栄の過去に足踏みをしてはいけません。 むしろ、キリストの受難と死と復活が開く未来を迎えるために心の準備をしなければなりません。 言い換えれば、弟子たちは「栄誉にあこがれることの愚かさ」から「十字架の愚かさ」(1コリント1,18)へ移って行かなければなりません。 弟子たちが選ばれたのは、この世の人が求めている栄誉のためではなく、むしろキリストにおける信仰によって、神が与える栄光の証人となるために選ばれています。

  単純に大人が子どもを歓迎するのと同じように、弟子たちはイエスが二回目に打ち明けた教えを単純に受け入れるように招かれています。 イエスが殺される理由は、イスラエルの民を指導する大祭司たちや律法学者たちやファリザイ派の人々が自分たちよりもイエスの方が群衆の人気を集めていることを認めたくないからです。 キリストの評判に対して嫉妬の気持ちを抱いて、彼らは辱められています。 結局彼らはすべての人の救いを望まれる神の愛を全く分かっていませんでした。 自分たちよりもイエスは徴税人や罪びとや娼婦たちの世話をするのを見て、イスラエルの指導者たちは躓いています。

  私たちも自分たちの人生と世界の流れに対する神のやり方を時々理解せずに、強い反発を抱いています。 私たちは自分の評判を守ろうとしながら、自分が愛され、認められるように望んでいます。 また、安全に暮らすためにすべての状況を支配するように努力します。 聖ヤコブはそのことを次のように上手に説明しました。 「私たちは、欲しがるが、手に入れることができません。 また、熱望するが、得ることができません」と。

   今日の知恵の書の朗読は、同時代の人々が殺したいほど憎む正しい人の悲劇を思い起こさせました。 しかしこの話の結論は希望を与えます。 「本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずです」と。 知恵の書が語る「憎まれた人」の内にイエスを見分けることは簡単です。 その人の内に私たち自身も認めることが必要です」。 なぜなら、洗礼を授けられた時に私たちは神の子の資格を受けました。 ですから、憎まれて、反抗されてもイエスに倣って周りにいる人々の世話をする人となりましょう。 そうして、神が私たちに委ねた救いの喜びを人々に与えることで、ちょうど小さい子供が自然に周りの人々を明るくするように、私たちも周りの人々の顔を輝かせましょう。 アーメン。



             年間第26主日  B年   2018930日   グイノ・ジェラール神父

                    民数記11,25-29  ヤコブ5,1-6  マルコ9,38-4547-48

  「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とイエスは言いました。 弟子たちは自分たちの目で悪の力と戦う人を見ました。 その人は悪を退けるためにきっとキリストの呼びかけを聞き、また弟子たちがキリストの名によって病人を癒したり、悪霊を追い出したりすることを見て、キリストや弟子たちの真似をしたのでしょう。 イエスは自分の弟子たちの厳しい反応に直面して、直ぐに自分たちの真似をした人を弁明します。 と言うのは、イエスの名によって悪の力と戦う人は福音の証人となるからです。 キリストの光を暗闇にもたらす人は、神に属することをはっきり示すからです。 このような人は、弟子たちに一杯の水を飲ませた人と同じように、世の救いのために具体的に働いているので、正しい報いを受けます。

   私たちと同じ信仰を宣言しない人々の内に聖霊の働きを発見し、喜ぶようにイエスは私たちを誘っています。 イエスは全ての人に救いの道を開きました。ですから、キリスト者で有るか無いかは別にして、皆が救いの道を歩むように招かれています。 私たちの共同体に属していない人々、あるいは洗礼を受けていない人々が、私たちを真似る事を見て眉をひそめることや彼らを咎め、追い出すことをしてはいけません。 神の国に導き、大きく開かれた道で人を妨げることや、信仰への道を歩もうとしている人を落胆させることは、とんでもない躓きになります。 この態度についてイエスの言葉はとても厳しいです。 「人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と。

   昔、モーセも決められた場所以外で預言している人を止めさせて欲しいと聞いたとき、イエスと同じ厳しい反応をしました。 「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。 わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」とモーセは答えました。 イエスの名によって悪霊を追い出す人を止めさせようとしたヨハネに、イエスは「やめさせてはならない。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と答えました。

  私たちはいったいどのように自分の手、目、足、心を使っているでしょうか。 物を奪い、人を支配し、人を見捨て、人を躓かせるために、これらの体の部分を使っていないでしょうか。 聖ヤコブは今日の手紙を通してそれを暴露し厳しく戒めています。 果たして、私たちの手、目、足、心が、愛徳や分かち合いのため、信頼、尊敬を示すため、神に感謝と祈りを捧げるために使われているでしょうか。 疑いもなく、私たちは自分の体が、神の救いの味方であるか、反対に妨げとなっていないかをはっきり見分ける必要があると思います。 きっと自分の生き方の中で、躓きと妨げになって切り落とすものやえぐりだすものがあるに違いありません。 キリスト者は 妬みと利己主義、人を遠ざけ敬遠する態度、赦しを否定する心、人を裁く眼差し、人を悪人として指で指す手、その人を悪く言う舌を切り捨てることが肝心です。

  イエスに倣って、わたしたち一人ひとりは自分の存在の中にある暗闇と光を分けるように、即ち、自分のうちの神の味方の部分と神に反する部分を発見するように努めましょう。 神の助けを借りて、すべての人のうちに神が注がれる光を発見して、彼らにキリストの知識をもたらすために必要な一杯の水を与えましょう。

  更に、私たちも日常生活の出来事を通して、キリストの存在を見分けさせる一杯の水を出会う人々から遠慮することなく喜びの内にいただきましょう。 そうすれば、いつか、福音のために歩めない人、体の不自由な人、目の見えない人となった大勢の人々と共に、喜びに溢れ、天国の宴会に入り、神の慈しみと愛の水で満たされるでしょう。 アーメン。



            年間第27主日 B年   2018107日   グイノ・ジェラール神父

            
創世記2,18-24  ヘブライ2,9-11  マルコ10,2-16

  イエスの時代の男性たちには、すべての権利があり、律法は彼らの味方でした。 創世記2章の物語によると、女はただ「男を助ける者」です。 理由は「人が独りでいるのは良くない」と主が言われたからです。 イエスは創世記1章の物語を思い起こすことによって、正しい教えをファリサイ派の人々に納得させます。 神はご自身の似姿に男と女を造りました。 「神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された」(参照:創世記1,27)。 カップルの使命は神の似姿をはっきり示すことです。 つまり男だけでもなく、女だけでもなく、男女が一体となって神の似姿なのです。

  したがって、イエスにとって離婚することはカップルの一致を破壊すると共に、神の似姿を否定することです。 創世記2章の物語は離婚できないことを教えています。 男と女は別々に創造され、彼らは完全になるために2人が一体とならなければなりません。 2人の愛が神ご自身の愛を示すので、離婚することは神の愛の計画に反しています。 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とイエスは強く断言します。 これに対して、離婚をしてもよいとするモーセの掟はもう役に立ちません。 この事実を理解した弟子たちは激しく反応して「そんなものなら、妻を迎えない方がましです」(参照:マタイ19,10)と叫びました。 夫婦は神の似姿であるので忠実に生きること、そして絶えず互いを赦し合うことを要求されています。 ご自分の不忠実な民に対して、神はずっと忠実であり、絶えず聞き分けのない民を赦しました。 神は「もし、あなたがわたしに対してたびたび不忠実であっても、わたしはずっと忠実な神なので、あなたを赦すでしょう」(参照:エゼキエル16,60-63)と。聖パウロも同じことを教えています。 「わたしたちが誠実でなくても、神は常に真実であられます。 神は御自身を否むことができないからです」(参照:2テモテ2,13)と。 夫婦は一致と忠実さに生き、絶えず互いを互いに赦し合うべきです。 そして「七回どころか七の七十倍までも赦さなければなりません」(参照:マタイ18,22)

  愛に対して律法は役に立ちません。 愛があってもなくても律法は助けになりません。 もし互いに愛し合うなら、この愛を守るための律法は全く必要ありません。 同時に互いに愛し合わないなら、律法があってもその愛を救うことができません。 律法は役に立たないだけでなく、愛を傷つけ邪魔する可能性が大きいです。 ご存知のように、離婚してはいけないという律法のせいで、離れ離れにならずにずっと我慢して苦しみながら一緒に生活を続ける夫婦が多いです。 愛を強め、立て直すものは律法ではなく、忠実さ、一致の望み、お互いの赦しだけです。 これこそイエスの教えです。

  今日の第2の朗読は、私たちが愛の完成に導かれるためにキリストが苦しんだことを思い起こさせます。 離婚して再婚した人は教会の秘跡に与ることができませんが、神は彼らに対して愛と慈しみを決して拒まれません。 なぜなら「イエスは失われたものを捜して救うために来られたからです」(参照:ルカ19,10)。 結婚に失敗して離婚した人が、もし1人で生きることを不可能と感じて再婚し、自分が属する小教区のミサと集いに与り続け、さらに再婚相手との間に子供ができ、その子供にキリスト教的な教育を与えるなら、必ず神の慈しみは彼らに与えられています。

 「神は愛」と歌うことで宣言することはとても簡単です。 歌うよりも自分自身を捧げることによって、また忠実さと一致の恵みを心から願うことによって、神の愛に生きることは私たちにとって最も大切です。 神の似姿に創造された私たちは独身であろうと、やもめであろうと、夫婦であろうと、離婚者や再婚者であろうとそれぞれの人が住んでいる場所で、神の愛に生き、絶えず神から与えられる赦しによってその愛を現しましょう。 アーメン。



          年間第28主日  B年   20181014日   グイノ・ジェラール神父

                   知恵 7,7-11   ヘブライ 4,12-13    マルコ10,17-30

  イエスと出会って質問した金持ちの青年は徳に恵まれた若者でした。 しかし、ある種の不満が彼の心を満たしています。 彼は、先祖が残した遺産よりも他の宝を望んでいます。 イエスが教えの中で語られた、永遠の命を欲しがっています。 なぜなら、物質的なものは彼に幸せを与えないことが分かっているからです。 そのために、イエスは愛で満たされた眼差しを彼に注ぎながら、この青年の人生を成功させる道を教えています。 全く新しい生き方にイエスは彼を招きます。 つまり、生活の安全を保護する贅沢な道から離れて、物質的な所有物が僅かしかない不安の道を選び、その道を歩み始めるようにイエスは彼に勧めています。 というのは、金持ちの青年が欲しがっている永遠の命と幸せをこの険しい道を保証するからです。 残念なことに、青年はイエスのこの根本的な勧めを選ばずに、悲しみながら立ち去りました。

  徳に恵まれた青年は「子供の時から神の掟を守ってきました」。 彼には生きるために欠けているものが全くありません。 しかし彼はより多くの物を持ちたいのです。 そこでイエスは大切なことはもっと所有することではなく、もっと少なく所有することだと教えています。 永遠の命を受け継ぐには、邪魔なものを取り除く必要があるからです。 私たちは皆、もっと多くを所有する誘惑と出会っています。 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と青年は尋ねました。 「すること」・「受け継ぐこと」この二つの動詞はこの青年の間違った考えをはっきりと現しています。 なぜなら、永遠の命を受けるためには「すること」でも、「所有する」ことではなく、むしろ「受け止めること」・「貧しくなること」です。そういう訳で、イエスは金持ちの青年に根本的な変化を勧めています。

   「知恵の書」はある意味でイエスが青年に与えた提案を紹介しています。 「知恵の前では金も砂粒にすぎず、知恵と比べれば銀も泥に等しい」と。 自分の力と徳に恵まれた心で、あるいは持っている富と豊かさで人は永遠の命を得ることができません。 特別に、何もせずに、人はただ神の無償な賜物である永遠の命を素直に受け止めることしかできません。 邪魔な物や余分な物を捨てることは難しいかも知れません。 しかし「人間にできることではないが、神にはできます」とイエスははっきり言っています。

  の幸せは所有する物の中にではなく、むしろ私たちが与える物、神がそれを百倍にして返す物の中にあります。 そういう訳で、私たちが所有物に脅かされ、物質的な安全の虜になることがないように、イエスの後に歩むことが必要です。 イエスこそが神の知恵であり、永遠の幸せの泉です。 イエスに従うことを決める人は悲しさを退け、待たずに永遠の喜びに入り込みます。

  「わたしは祈った。 すると悟りが与えられ、願うと、知恵の霊が訪れた」と知恵の書が断言しています。 神から来るこの知恵を受けるために、私たちは先ず、イエスの言葉が私たちの心の思いと計画、「精神と霊、関節と骨髄」にまで深く染みることを承諾することが肝心です。 なぜなら、イエスの言葉は「生きており、力を発揮し、どんな「両刃の剣よりも鋭いものである」からです。 この言葉は、永遠の命と幸せに導くために余分な物や偽りの豊かさから私たちを解放し自由にします。 アーメン。



            年間第29主日 B年  20181021日   グイノ・ジェラール神父

                  イザヤ53,10-11    ヘブライ4,14-16   マルコ10,35-45

  世界宣教の日に当たって、教会は私たちの眼差しを全人類に向わせます。 福音宣教の責任を持つ私たちは、世界に広がっている教会と共に最後の場所、つまり人が望まない場所を選ぶこと、即ち皆に仕える僕の場所を選ばなければなりません。 キリスト者にとって一番よい場所とは、仕事の要求のある場所であり、全く問題のない場所ではありません。 「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」とイエスは勧めています。

  しかし、侮辱、悪口、憎しみ、嫉妬、高慢、偽善、偽証による犠牲者がいる所で、神の愛のために、一緒に暮らしたいと望む人が私たちの内に一人でも見つけることが出来るでしょうか。 この地獄のような状態の中に入って、いったい誰が柔和、正義、謙遜、思いやり、赦し、真理を人々に注ごうと心から強く望むことが出来るでしょうか。 「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」とイエスは私たちに尋ねます。

  人々の心から妬み、軽蔑、不正、偽りなどのような愛が不足し、傷付いている所へ、それらを追い出すために、キリスト者や司祭や宣教師が訪れるように召されています。 それは神が全人類を包み込む暗闇を照らすためです。 神が人類の傷を癒せるかどうかは、私たちの協力にかかっているのです。 なぜなら、私たちの言葉と行いによって福音の光を人々にもたらすことが出来ます。 そして私たちは、全ての人類を大きく変化させ美しくなさる神の愛の神秘に彼らをいれることが出来るからです。

  望まれない最後の場所を取る事、それはキリストに倣って自分の命を捧げることです。 最後の場所を取る事、それは憎しみのあるところに愛を、過ちのあるところに赦しを、偽りのあるところに真理をもたらすことです。 最後の場所を取る事、それは福音的に生きること、言い換えれば、神の愛のために、聖フランシスコの美しい祈りを実現することです。 結局、この最後の場所は、最初の場所となります。 なぜなら、キリストのように生きる人は、神の子となり、慈しみと平和の働き手となるからです。

  「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない」とイエスは断言しました。 私たちは人々を圧迫する物事を背負うように招かれています。 つまりキリストが言われたことを実現することです。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。 」(マタイ11,28)と。

  祈りと具体的な行動によって苦しむ人々の悩みや災いや不幸を背負うことが、神の望まれることだと預言者イザヤは教えています。 それを実現する人は「光の子」となり「救いの泉」となります。 ヘブライ人への手紙は全人類の罪と苦しみを背負ったイエスを模範として提案します。 イエスに従って最後の場所を取る人は、自分のためにも世界のためにも神の慈しみと救いを得る人です。

  世界宣教の日に当たって福音的に生きること、また言葉と行いによって福音の愛のメッセージを伝えることができるように努力しましょう。 全世界の人々や親戚の人々、あるいは周囲の人々を包んでいる不幸と苦しみが私たちの祈りを養い、私たちの行動を導き、満たすように、父なる神にイエスを真似る恵みを願いましょう。 そして、神の愛のために、この世の救いのために、疲れた者、重荷を負う者、絶望を抱いている者とますます一致するキリスト者になりましょう。 アーメン。



         年間第30主日  B年  20181028日    グイノ・ジェラール神父

                  エレミヤ 31,7-9  ヘブライ 5,1-6  マルコ 10,46-52

   初代教会のキリスト者はエルサレムの神殿で行なわれている威風堂々とした豪華な典礼への憧れを持っていました。これに比べるとキリストの晩餐の記念は地味な式でした。ヘブライ人への手紙は、キリスト者たちがつつましく祝う神秘がエルサレムの神殿の典礼を遥かに超えていることを理解させようとします。なぜなら、エルサレムの神殿が破壊される時、その典礼も消えるからです。

  ヘブライ人への手紙を書いたのは、聖パウロの仲間であるアポロという人物だと思われています。彼はイエスを新しい礼拝の大祭司として紹介します。そういう訳で、イエスの「人間性」がはっきり示されています。なぜなら「大祭司はすべて人間の中から選ばれているからです」。神のみ言葉であるイエスは、乙女マリアから体を受けた真の人間です。「罪のほかは、すべてにおいて私たちと同じように生活しました」(参照:第4奉献文)。キリストの司祭職は、エルサレムの神殿の祭司たちと全く異なっています。彼らは皆罪のある人であり、自分たちの罪の赦しのために絶えずいけにえを献げなければなりません。反対に、イエスは唯一のいけにえを献げ、御自分のためではなく、全人類、つまりすべての罪人のために御自身を聖なるいけにえとして献げます。

  イエスの時代に、律法学者たちは不思議な人物であるメルキセデクについて色々と勉強していました。旧約聖書は二回メルキセデクについて語っています。「平和の王」(創世記14,18)である彼には「父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(参照:ヘブライ7,3)。「いと高き神の祭司」と呼ばれている彼は、平和の印としてパンとぶどう酒を献げます(参照:創世記14,18)。一つの詩篇は来るべきメシアは「メルキセデクのように永遠の祭司」(参照:詩篇110,4)であることを教えています。キリスト者たちは、平和の印としてアブラハムに与えたメルキセデクのパンとぶどう酒は、前もってキリストの晩餐の神秘を預言したものだと信じています。

  確かにキリストが死ぬ前に行なわれた晩餐のやり方は、神と私たちの和解を啓示しています。大祭司であり、屠られたいけにえであるイエスの死は、私たちに神の平和を与え、私たちを救います。十字架上で愛のうちにイエスはご自分の命を与え、人間性によって私たちに近い者となり、彼の聖性のお陰で父なる神の前に私たちのために執り成すことができます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(参照:ルカ22,34)。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(参照:1ヨハネ 2,1)と聖ヨハネは証ししています。

  言い換えれば、全人類の救い主と平和の君であるイエスは、私たちの唯一真の大祭司です。何世紀にも亘って、教会はミサ祭儀を捧げるために、いつも、新しい司祭の叙階を行ないます。選ばれたこの司祭たちは新しいいけにえは献げません。彼らは、日ごとに十字架上で、ただ一回だけ実現されたキリストの唯一のいけにえを「現在化する」使命を受けています。なぜなら、ただイエスだけが人々を救い、神と仲直りさせ和解することができるからです。

  本当にイエスは「メルキセデクのように永遠の祭司」であると同時に、十字架の祭壇に献げられている「完全な尊い献げ物」、「汚れのないいけにえ」でもあります。死から復活したイエスは 私たちに神の偉大な愛を示し、また神と和解させながらその平和をも与えます。私たちも、イエスの御体と御血をいただくことによって、キリストと親密に結ばれて、お互い同士仲直りし和解しましょう。それは、父なる神に栄光を帰するためです。アーメン。



        年間第31主日B年   20181104日  グイノ・ジェラール神父

                申命記6,2-6  ヘブライ7,23-28   マルコ12,28-34

  エルサレムに華々しく入城してから、イエスはエルサレムのソロモンの回廊でファリサイ人やヘロデ派の人々やサドカイ派の人々に囲まれて、彼らの質問責めに会いました。 その時、死者の復活についてのイエスの懸命な説明を聞いたある律法学者は申命記の掟についてイエスに尋ねます。

  申命記の個所を引用しながら、イエスは神の愛の掟を宣言します。 この個所は何世紀にもわたってイスラエルの民の最も大切な祈りとなりました。 「聞け、イスラエルよ。 我らの神、主は唯一の主である」。 十戒の第一の掟に基づいて作成されたこの掟は、毎日、昼も夜もすべての忠実なイスラエル人によって唱えられています。 人が出入りするたびに唱えるために、この祈りはドアの柱に刻まれています。 また、人が自分の左の腕に巻き付ける皮紐(テフィリン・シェル・ヤッド)にも書かれています。 またはファリサイ人が額に置く聖句の箱(テフィリン・シェル・ロシュ)の中にも入っています(参考:マタイ23,5、)。

  イエスはイスラエルの民の祈りを引用しながら、そこに新しい息吹を与えます。 なぜなら、イエスは第一の掟に隣人愛の掟を親密に結び合わせ、そこに繋がりを加えます。 隣人愛の掟はレビ記の中にあり、司祭のために書かれているこの本は預言的な幅を持っています。 そこでイエスは一石二鳥で違った2冊の本の中にある、二つの掟を一つにまとめ一致させました。 つまり、神の愛と隣人への愛が、一つの掟となります。

  このイエスの教えはとても新しい教えです。 自分に質問した律法学者に、隣人の中に目に見えない神の神秘的な現存があるとイエスは教えました。 キリスト者である私たちは神の似姿であると同時に、キリストの体の部分としてイエスの似姿でもあることを知っています。 その為に愛についての二つの掟は、分離することが出来ないものです。 「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です」と聖ヨハネは第一の手紙を通して教えています(1ヨハネ4,20)。

  マルコの話の終わりはとても魅力的です。 律法学者はイエスの答えを聞いて、喜びに溢れイエスの言われたことを繰り返しながら、愛の掟を守ることはエルサレムの神殿のすべてのいけにえを越えていることを宣言します。 聖書の専門家である彼は、サムエル記の最初(1サムエル15,22)、そして預言者イザヤの書(イザヤ1,11-17)からその個所を引用しました。 この律法学者の知恵を発見した途端、イエスは彼を褒め称え「あなたは、神の国から遠くない」と断言しました。

   典礼の行いよりも神に聴くことが第一と言った律法学者の発言は、イエス自身によって確認されました。 私たちの持っている五感の中で、聞くことによってだけ私たちに語る神関係を結ぶことが出来ます。 「きく」という動詞は聖書の中で700回以上出てきます。 神が全人類に一番大切なことを教えているので、人はどうしてもそれに耳を傾けることが必要だと聖書は教えています。 「聞け、イスラエルよ。 我らの神、主は唯一である。 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留めなさい」と。

   困難と出会うとき、予定通りにならないとき、私たちはどうしても神の愛と隣人の愛を自分の人生の支えとしなければなりません。 キリスト者にとって愛の掟は、信仰と希望の内に実現されています。 キリスト者は、犠牲や施しや祈りやあるいはその他の様々の努力を重ねる人ではありません。 キリスト者は、愛が死よりも強いと何よりも先ず固く信じる人です。 ですから、神が私たちの内に愛する力を強めるように願いましょう。 互いを互いに愛し合いながら、神への私たちの愛を示しましょう。 そして、神自身の心の広さで惜しみなく愛することを学びましょう。 アーメン。



          年間第32主日 B年  20181111日   グイノ・ジェラール神父

                  列王上17,10-16  ヘブライ9,24-28  マルコ12,38-44

  第一の朗読は福音の様々な出来事を思い起こさせます。 例えば、サレプタのやもめに水を求める預言者エリヤの願いは、サマリア人の女に水を求めたイエスの願いを思い起こさせます。 また、預言者エリヤを歓迎した家族が、ほんの少しの油と小さいパンで、長い間彼らを養います。 この奇跡は5つのパンと2匹の魚で5000人以上を養ったイエスの奇跡を思い起こさせます。 最後に、恐れないようにと預言者エリヤはやもめを励まします。 それはキリストがいろいろな場所で「恐れることはない」(参照:マタイ10,262831、マタイ28,10)と繰り返した言葉を思い起こさせます。

  イエスは聖書全体を実現するために来られました。 そのために、福音はいつも旧約聖書を引用しています。 言い換えれば、旧約聖書は新約聖書を私たちが受ける準備をしているのです。 それと同時に、新約聖書は旧約聖書を私たちに深く理解させます。 「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(参照:マタイ13,52)とキリストが言いました。 旧約聖書の光で新約聖書を照らすこと、また新約聖書の光で旧約聖書を照らすこと、その両方がとても大切です。

  ひとり息子と生きているサレプタのやもめが絶望の淵に立っているのは、飢饉が完全に彼女を貧しさに落とし入れたからです。 生き続けるために全力を尽くしましたが、彼女はもう力がないので死ぬことしか考えていません。 残っている物を自分に分けるように誘った預言者エリヤに「わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。 わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」と、やもめは答えました。 そこでエリヤは何も聞こえなかったふりをして、彼女がもう一度希望をつかむように預言します。 「恐れてはならない。 主はこう言われる。 主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と。

  私たちも持っている物をずっと握ってしがみつくのではなく、むしろ、それが信頼をもって与えられるように預言者エリヤは私たちに勧めています。 今日の福音で、イエスは生きるためにすべてを与えたエルサレムの神殿のやもめを模範として、私たちに見せます。 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(参照:ルカ9,24)とイエスは断言します。 人はほんの少しでも与えることで、新たな希望の道を開くのです。 なぜなら「与えることによって人が受ける」とアシジの聖フランシスコは教えています。 「自分を捨てて初めて自分を見出し、赦してこそ赦され、死ぬことによってのみ永遠の生命によみがえる」(参照:アシジの聖フランシスコ「平和を願う祈り」)からです。

  すべてを施したエルサレムの神殿のやもめのうちに、イエスは父なる神のやり方、即ち絶えず行われる態度を発見しました。 私たちが生きるように、神は惜しみなくご自分のすべてとご自分の命まで与えてしまいます。 すべてを与えるからこそ、神は非常に貧しいのです。 しかし、愛で限りなく豊かです。 ヘブライ人への手紙は「多くの人の罪を負うために」イエスが愛のうちにすべてを与えたことを思い起こさせます。 ですから、私たちも自然に自分の中に閉じこもる傾きがないようにしましょう。 なぜなら、その悪い傾きは罪に等しいものですから。 人を人とも思わない、お金と誉れだけに気を配る福音のファリサイ派の人々と律法学者の真似をしないように気をつけましょう。 むしろ、今日、模範として与えられた二人のやもめを見習って分かち合うことを学びましょう。 そして、豊かに命が溢れるように、私たちが分かち合いたい物事のうちに、多くの愛を注ぎましょう。 アーメン。



        年間第33主日 B年  20181118日   グイノ・ジェラール神父

             ダニエル12,1-3   ヘブライ 10,11-14,18   マルコ 13,24-32

   メシアの到来に先立つ150年前のとても混乱していた時代に預言者ダニエルは、苦しんでいるイスラエルの民に預言をします。預言者ダニエルは、イスラエルの民を救おうとする大天使ミカエルの大きな戦いが歴史の出来事として起こる事を紹介しています。また、復活について、特に体の復活と人々に与えられる永遠の命について、初めて語った人は預言者ダニエルです。

  紀元70年頃。マルコが福音を書いた時、初代教会の信者は厳しい状況を耐え忍んでいました。ローマのキリスト者はネロ皇帝の迫害を受け、その後200年の間ネロの後継者によって、ますます信者に対する暴力が増えました。イスラエルではユダヤ人の戦争はエルサレムの滅亡で終わり、数年前に完成されたエルサレムの神殿は完全に破壊されました。更に、奴隷としてイスラエルの民は世界中に散らされていきました。また、その当時、色んな国々で飢饉、疫病、災いや戦争、あるいは支配者たちの圧制が目立つようになりました。

   昔と同じように今日でも、マルコの福音が述べているようなイエスが語った災いを私たちは体験しています。メシアの到来を説明する時、イエスは三つの違ったもの、つまり日常生活の困難とエルサレムの破壊と世の終わりの出来事を区別しないで、話しているので彼の教え解かり難くなっています。

   世の終わりを告げる人々が、必ずどこかに現れるにもかかわらず、イエスは私たちを安心させます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と。災いを預言するイエスは決して恐怖をもたらすつもりはありません。むしろ私たちが信頼と冷静さをもって用心深い人であるように望みます。私たち一人ひとりにとって『世の終わり』とは自分の死の時です。この時に、時間の流れが止まり、あっと言う間に私たちは「時の終わり」である永遠に入り込みます。そこにイエスはすべての人を集めます。

  ですから、神が私たちに与える時の徴に対して用心深くなりましょう。そのためにイエスはいちじくの木のたとえを示しました。「恐れることはない、希望をもって、安心して生きていなさい」とイエスは願っています。イエスは冬の葉を失ういちじくの木について語りませんでした。むしろ春が終わり、夏が近づいて来る時のいちじくの木について話しました。イエスはたくさんの実を結ぶ新しい命について私たちの注目を引こうとしています。キリストの弟子になった私たちは、この世の土台のない恐れをもたらす使命は受けていません。また「自分の死後、何が起ころうとかまわない」と宣言するためにキリスト者になったのでもありません。私たちは、この世に揺るぎない希望と信仰をもたらすためにキリストの証人となりました。

  日常生活の試練と災いが大きな喜びの芽生えであり、夜の暗闇は命が芽を出し、大きく伸び伸びと成長し、だんだん茂る大切な実りの時です。私たちは十字架の木にキリストと共に繋がっているので、「試練の時」は私たちにとって「希望の時」でなければなりません。すべてが揺れ動いても、深い暗闇が私たちを襲っても、天と地が消えても、決して恐れる必要はありません。「命の木」であり、救い主であるキリストにしっかりと繋がっている人は、不幸が幸福に変化することを見、またそれを体験します。ですから神を信じる人々に与えられている命が、災いと試練によって強められ、もっと豊かになることを固く信じましょう。アーメン。



         王であるキリストB年  20181125日   グイノ・ジェラール神父

                   ダニエル7,13-14  黙示1,5-8  ヨハネ18,33-37

   パンの増加の夜に夢中になった群集は、イエスを王とすることを望んでいました。 しかし、イエスはそれを退けて一人で山の中に逃げました。 しかし、死刑の宣告を受ける、イエスはピラトにはっきり宣言します。 「はい。 確かに私は王です。 」と。 しかし、直ぐにイエスはピラトが考えていなかったレベルの王権の場所を教えました。 キリストの王権は決してローマの皇帝の王権に逆らっていません。 なぜなら、その王権はこの世のものではないからです。

   この答えを聞いたローマ人の兵士は嘲りと嘲笑のしるしとしてイエスの頭に茨の冠をかぶせローマ皇帝のマントの色をしている赤い布を彼に着せました。 同様にユダヤ人を苛立たせるために嘲りのしるしとしてピラトは、有名な罪状書きを置きました。 「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と。 この罪状書きを見てユダヤ人たちは、直ぐにピラトに不満を告げました。

   「真理とはなんですか」と尋ねるピラトに、イエスは何も答えませんでした。 しかし、イエスの沈黙こそが、はっきりした答えです。 「真理何であるかを知りたい人は、私を見てください。 私は真理であり、また命です」と。 キリストの王国は、ある人が他の人たちを支配する王国ではありません。 イエスの王国は全ての人に開かれた命と真理の道であり、この道は人を生かし自由にします。

   自分の生き方で真理を現すことは、それは自分の考え、行い、言葉、信じること、希望すること、などの全てを一致させることです。 そうすることで時々正しいことを選ぶことが難しくなります。 真理に基づいて生きることは、私たちを優しく騙し操り人形のようにする偏見やイデオロギーによって操られないようにすることです。 受けた洗礼によって私たちは「祭司と預言者と王の民となりました」。 ですから、私たちの証しが豊かな実を結ぶように、私たちは自分のうちに真理を現すように召されています。

   ピラトの前でイエスは無力です。 しかし、権威を持ってはっきり話します。 受けている嘲り、軽蔑にもかかわらず、イエスは愛し続け、赦すことによって、その権威をはっきり現します。 全人類を救うために、イエスは愛と赦しの力によってすべてを自分の方に引き寄せます。 イエスはそれを預言していました。 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(参照:ヨハネ12,32)と。 ピラトと直面して、イエスはそれを繰り返します。 「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と。 世の光であるイエスは、「真理を行う者は光の方に来る」(参照:ヨハネ3,21)とも言いました。

   キリストにおける信仰は、信じる人をみ言葉の神秘の内に引き寄せます。 この神秘は真理と光の神秘です。 私たちの信仰が笑いものとされるとき、聖霊が直ぐ私たちを助けに来ます。 それは恐れなく権威を持って私たちが迫害と嘲りの暗闇を真理の言葉によって照らすためです(参照:マタイ10,20)。

   ですから、神の子供の光輝く自由と、真理の方へ引き寄せられるように、恐れずにイエスの言葉を受け止めましょう。 真の神、真の人間であるイエスの神秘を祝いながら、イエスと共に王国を目指して歩き続けましょう。 イエスだけが「正義の王」であり「平和の君」ですから。 アーメン。



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